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天孫降臨

日本神話の二大トピックと言えば国産み天孫降臨ではないでしょうか。


もちろん神話なので、いずれも本当の出来事ではありません。

ただし、全くのデタラメという訳ではなく、神話の元となる事実は存在したようです。

国産みの場合は、以前、琵琶湖から淡路島が生まれた記事を書きましたが、それがモデルになっているはずです。

<琵琶湖と淡路島の謎>
   http://calseed.blog31.fc2.com/blog-entry-59.html

琵琶湖と淡路島の話は間違いない史実だと考えています。

ただし、それがいつ頃の話か良く分からなかったのですが、その後のもろもろの情報を勘案すると、アトランティスが消滅する2回目のカタストロフィーの原因となった隕石落下であり、約1万2000年前というのが有力と思っています。

その時の記憶が倭人に残っており、それが後に神話となったのではないかと考えています。


もう一つのトピック、天孫降臨ですが、その内容を調べてみます。

<WIKI:天孫降臨>
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8

天孫降臨(てんそんこうりん)は、アマテラスの孫であるニニギが、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話である。
ここでは、葦原中国平定の後、ニニギが葦原中国に降臨し、コノハナノサクヤビメとの間に三柱の子を生むまでの日本神話を記す。


もう少し分かり易く解説しますと、
国産みの後、日本が形成されましたが、最初は国津神(くにつかみ)が日本を治めていました。
代表的な国津神(くにつかみ)は、オオクニヌシノミコトです。

ところが、オオクニヌシノミコトの統治は、天上界の天津神(あまつかみ)の神意を反映したものではなかったようです。

そこで、オオクニヌシに国譲りをさせ、天上界からアマテラス(天照)の孫ニニギが地上界の高天原に降り(降臨)、新たな統治が始まります。

これが天孫降臨

その後、数代を経て、初代天皇神武天皇に繋がっていきます。


降臨した高天原はどこなのか議論されていますが、
有力なのは九州高千穂地方。
他にも四国の阿波説など議論されています。

しかし、私は高天原の場所がどこかは、あまり意味のない議論だと思っています。

それは天孫降臨が事実ではないからです。

スサノオ、アマテラスやニニギ、さらにはオオクニヌシは約3500年前に存在したようですが、もちろん神様ではありません。

日本人の祖先、倭人の血をひく人々で、現在の日本の元を造った人たちです。
それ以前も、縄文の初期文明、ムー文明などがあったようです。

それでは、何故、彼らが神格化されたのか?

それは、のちの人々が皇室を正当化するためではないかと私は考えています。

3500年前から水稲農業を中心とした文明が開化しました。
(正史では2500年前の弥生時代とされています)

この頃、水稲が日本全国に広がって行ったようです。

もちろん、それよりも随分前、1万年くらい前から陸稲はあったようです。
水稲栽培を開発したのが、スサノオやアマテラス時代の人たちだったのではないかと想像しています。

これによって飛躍的に生活が安定し、文化が栄えていったのではないか。

<参照:アマテラス文明>
   http://calseed.blog31.fc2.com/blog-entry-75.html

また、これを裏付ける文献が幣立神宮には残されているようです。
<参照:驚愕!幣立神宮>
   http://calseed.blog31.fc2.com/blog-entry-88.html

幣立神宮の先代の春木宮司の著書「青年地球誕生」には次のように書かれています。

青年地球誕生―いま蘇る幣立神宮青年地球誕生―いま蘇る幣立神宮
(1999/06)
春木 秀映春木 伸哉

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~転載開始~
 つまり、この地球(クニ)は幣立神宮の御神祭である神様のお魂を受け継がれた子孫の国であり、それは永遠のものであるという宣言です。そのことは、天照大神の御霊を受け継がれたその子孫は神の心で国を治め、人々の幸福を増進させることの責任と自覚のありかたを明らかにされたもので、それ故に永遠のものであるということです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 幣立神宮の森の回りには東西南北に素晴らしい湧水地があります。この湧水の流域には早くから稲作が盛んで、この地に暮らす人々は大変豊かでした。水害や干ばつを恐れなくてよい、恵まれた環境にあります。この環境で生まれたのが古代の稲作です。この古代の稲穂こそが斎庭(ユニワ)の穂であることは、その伝承のなかで受け継がれています。
 ニニギの命様はこのうちの西の湧水地・西御手洗の水をもってできた稲穂、また、稲作の技術と種籾を持って、高千穂に御降臨されたのです。
 天孫降臨の使命の最も重要な一つは、この斎庭の穂を持って、新しい文化、稲作文化を広める事にあったのです。

~転載終了~


私は日本最古の神社は幣立神宮だと考えています。
春木宮司の著書にも幣立の歴史は1万5000年前に遡るようなことが書かれています。
もしかしたら、さらに古く、人類の祖先がいた可能性も否定できません。

その幣立(高千穂)にアマテラスは生まれました。
スサノオと出会い、農業の技術、森を造る技術、武器を造る技術を知ったはずです。

そして、その孫ニニギが、稲作を幣立から日本中に広めていったそうです。
これが天孫降臨の真実のようです。
文化を広げ、古代日本の基礎ができていきます。


しかし、豊かになれば権力争いも生じます。
いつまでも平和な時代は続かなかったはずです。

また、時代が1000年程下った2500年前頃には、神の国「倭国」へ渡来する人々が増えていったようです。
応神天皇時代(在位270年~310年)には倭国で大乱も起きているようです。

しかしながら、それでも倭国は倭人と渡来人がうまく混合しながら高い文化を保っていたのではないか。

ところが西暦535年の例の隕石により当時の中央文明が壊滅してしまった。

混乱に乗じて権力を握ったのが、朝鮮半島から福井あたりに移り住んでいた継体天皇の一族。
その前の皇室とは全く繋がりがないようです。

継体天皇は、その後、武力によって地方を制圧していきます。
この事は正史にも残っています。

<WIKI:筑紫磐井の乱>
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1
(ただし年号は改ざんされていると思います)

しかし、その後、
645年に大化の改新、
672年に壬申の乱、
と大きな内乱が生じます。

私は、この2つの内乱は、継体天皇の末裔政権に対して、倭人系、および秦氏など継体天皇とは異なる別の渡来人系の三つ巴の争いだったのではないかと推測しています。

結果、秦氏を中心とした渡来人(藤原氏)が勝った。

現在の皇室は、秦氏などの渡来人の血が主力ではないかと考えています。
秦氏はおそらく古代イスラエルの末裔。
ここから、日ユ同祖論となっています。

(ここで言うユダヤはアッシュケナジーではなく、スファラディー)

<参照:イスラエル十二支族>
   http://calseed.blog31.fc2.com/blog-entry-83.html
<参照:十二支族と渡来人>
   http://calseed.blog31.fc2.com/blog-entry-84.html

しかし、古代イスラエルも元をただせば倭人

スサノオやアマテラスも倭人の血です。
大元は一緒ではないかと、私は思っています。
(継体天皇の祖先が倭人かどうかはわかりません)


話を本題に戻します。
何故、天孫降臨の日本神話が作られたのか。

これは、壬申の乱以降、権力を握った秦氏(藤原不比等)が古代の倭人文化を消し去り、当時の皇室を正当な倭国の歴史とするためだったからではないでしょうか。

そのために古事記、日本書記を編纂させ、竹内文書をはじめとした古文書を偽書として廃棄した。

そして、秦氏は、自らの祖先古代イスラエルの旧約聖書の天地創造を模して、倭人文明の人たちを神に祀り上げたのが天孫降臨ではないでしょうか。

秦氏はさらに、倭人がエジプトから持ちこんだ古神道を廃止し、天津神系伊勢信仰を作り上げたのではないか。

秦氏については、別の機会に取り上げようと思いますが、日本の歴史は、倭人と渡来人の複雑な関係がいりみだれているようで、一筋縄には解明できないようです。

ただし、間違いないのは7世紀以前の正史は、全くのウソだということです。

今後は、キリスト教の伝来も含めて歴史を解明できればと考えています。
キリスト教も倭人が大きな影響を与えているように感じています。
イエスが日本で息絶えたようだというのは、どうも間違いないようです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。


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マハーカーラ

大黒天。インドから伝わり大国主命と習合。私は、元はエジプトの神ではなかったかと思っています。建築者集団倭人の神(の一つ)が、倭人の東進と共にインド経由で日本に到達した。

倭~大倭~日本、と国名が変わったのは、支配者の血統、文化が断絶したから。継体王、天武天皇は新羅系。その新羅は秦からの脱出集団が元。秦にはユダヤ系が大量に居住。と、本日記事後半は「失われたミカドの秘紋」祥伝社刊の内容と符合しています。

萬世一統がDNAで証明不能としても、重要なのは天皇霊が連綿と数千年継続している、我国の霊性の高さ。

皇室トップに生まれる方々の魂は、全てのカルマを超えた存在で、我々一般人とは魂のグレードが違うようです。一説では北極星系の進化した世界からの転生とか。

Re: マハーカーラ

> 継体王、天武天皇は新羅系。その新羅は秦からの脱出集団が元。

天武天皇は天智天皇とは兄弟ではないということですね?

>と、本日記事後半は「失われたミカドの秘紋」祥伝社刊の内容と符合しています。

私は宇野氏と飛鳥氏の著書、そしてkさん情報から推測しています。
その本も読んでみます。

> 萬世一統がDNAで証明不能としても、重要なのは天皇霊が連綿と数千年継続している、我国の霊性の高さ。
> 皇室トップに生まれる方々の魂は、全てのカルマを超えた存在で、我々一般人とは魂のグレードが違うようです。一説では北極星系の進化した世界からの転生とか。

そうでないと国民がついていかないですよね。
ダライ・ラマ、ローマ法王もそうでしょうね。
政治家は全くダメなようですが。

calseed

No title

高天原=蒜山、天孫降臨地=伯耆国説

①  宮崎県の高千穂を訪れた人は疑問に思われるそうである。出雲の地で国を譲りましょうといわれて、なぜ譲られた地が出雲から遠く離れた宮崎県なのか。建御名方命は国譲りに際して、なぜ出雲の国に逃げずに長野まで逃げたのか。事代主命は譲った国から魚釣りに出かけていて、帰ることが出来ずに、美保関で入水自殺した。なぜ出雲の国に帰らなかったのか。
②  伯耆国は今日で言う出雲国の隣です。伯耆国はもとは出雲国と同じスサノオや大国主の命が支配していました。もと出雲の国ならばスサノオや大国主がいた痕跡(祭られている神社)が残っているはずである。宮崎県には少ないが伯耆国は多い(スサノオ162社・大国主66社)です。もと出雲国の伯耆国を天孫族に国譲りしました。国譲りの交渉に2番目に派遣された天稚彦命は大国主の命の娘の下照姫命と結婚して8年間帰ってこなかった。結婚して伯耆国の倉吉駅の近くの大平山近辺に住んでいました。天稚彦命と下照姫命の祭られている神社は希少で少ないが倭文神社 (舎人村 湯梨浜町宮内754)と 波波伎神社(倉吉市福庭654番)に祭られています。波波伎(ハハキ)は櫛稲田姫命が「母来ませ」と助けを求めたところからきています。波波伎神社の横を流れる天神川の上流の坂本の神社には櫛稲田姫命の両親が祭られています。箸の流れるのが分かるほどの支流です。途中、大瀬ほうき(ハハキが訛ってほうき=伯耆になった)という地名も残っています。大平山の麓には後にニニギの命が東倭を征伐し浦が安くなるように建立したと伝のある上里神社があります。
③  『尊卑分脈』に引く藤氏大祖伝に、藤原不比等は山科の田辺史大隈の家で養育され、史(ふひと)と名づけられたと記されている。百済系史官とは、田辺史・書首・船史らのことをいうが、当時の最大権力者藤原不比等(史を不比等に改めた)が、百済系史官のバックにいたことは当然考えられる。不比等は大宝律令の撰定者でもあったが、『続日本紀』に、藤原不比等ら撰定者に録を賜うとあり、その中に田辺史百枝・田辺史首名の名がみえる。田辺史から選ばれているのは、田辺史に養育された不比等のバックアップによるものであろう。大宝律令の撰定に百済系史官を使っているのだから、『日本書紀』の編纂にも藤原不比等の息のかかった百済系史官を使ったものと思われる。百済系史官が『日本書紀』の編纂における中心的役割を果たしていた。山上憶良は百済人であり百済系史官であった。
④ 白村江の戦で敗れた朝廷は都を大津に移し、百済の王族を宮崎県に逃がしている。当時の最大権力者である藤原不比等も百済系である。藤原不比等の息のかかった百済系史官が『日本書紀』の編纂における中心的役割を果たしていた。藤原不比等は自分たちに関係する百済の王族のいたところを天孫降臨の地にしたかったのである。それが天武天皇の古事記を改ざんし、長い間消していた動機である。古事記は712年に発表されたが長い間消されていた。 古事記を見た藤原不比等は716年に史誌編さんに携わっていた山上憶良を(天孫降臨の地の移転目的で)古事記の内容の確認に伯耆国の国司(国庁は倉吉市国府)に派遣する。山上憶良は好きな万葉の歌一首をつくる間もなく、調査に専念した。伯耆国の調査報告を逐一受けた藤原不比等は古事記を百済色に改ざんして日本書紀などの史誌を編さんした。その後日本書紀は720年に発表されその年に藤原不比等も亡くなっている。721年に山上憶良は朝廷へ帰って5年後の726年再び筑前の国司となる。 大伴旅人(九州全体の長官)と仲良くなり、日本書紀などの史誌に合うように 九州の地名・神社の創設・神楽の創設をしていった。九州の記紀伝説は伯耆国のコピーである。厳密にいえばコピー元を消してきたのでコピーではない。
⑤  ニニギの尊は高千穂に立たれて「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、と古事記には書かれている。「韓国に向かい」で論争になったが、対馬海流にのると朝鮮半島からは流されるように鳥取県や丹後半島に着きますよ。という素直な捕らえ方をすればよい。古くから朝鮮半島からの渡来人が多く漂着したところです。当時は海岸線が4m高く、リアス式海岸であり笠形の砂地を先頭にして瀬戸から亀谷・津原・穂波・原まで巻く大島を中津とする大きな天然の良港があった。海面が4m高ければ大島が中津となり今でも葦が残る葦原中津国といえる。「朝日は直にさし、夕日は日照る」地である。「朝日は笠沙の御前を眞來通りて、直刺す」と読むべきではないか。松神と下神の北側にはニニギの命とコノハナサクヤヒメが出会った三輪山があった。今は崩されて丘だけとなり三輪神社跡の石碑が残るのみであるが、三輪神社にはニニギの命(日向御子)が祭られていたのではないか。松神神社には神阿多都比売(コノハナサクヤヒメ)がまつられている。
⑥  縄文海進で海面が百数十メートル上昇すれば蒜山のような高いところに逃げるのは本能である。その後国譲りで蒜山から鏡ヶ成(猿田彦が鏡を使って連絡をした場所)を通ってすぐ下の関金に降りてきた。幼少期のニニギの命は関金(三ヶ所の神社に祭られている、神田神社 関金町泰久寺632番 日子番能瓊々杵命)で成長し上福田(楯縫神社)に移り、その後上種(大宮神社)に御所を築いた。関金からほぼ真北に移動している。大宮(上種)以前(関金、上福田)はやまかげの場所ばかりで大宮(上種)を「日当たりの良い地である」と言ったのはもっともである。
もと出雲国であり天孫に譲られた国、天孫降臨の地は伯耆国である。ニニギのお供の者も北栄町の大宮を中心に自然な距離に祭られている(天児屋根命は穂波神社に祭られていた)。天太玉命は方見神社に石凝姥命は倉坂神社に、天手力雄命は神郷神社に、天鈿女命は上里神社にまつられている。コノハナサクヤヒメもニニギの尊のおられた大宮神社と同じ丘陵の少し下ったところにある亀谷神社に祭られています。行き来するのに自然な距離です。また産屋があったと思われる高江神社が隣の丘にあります(コノハナサクヤヒメを祭る子安神社)。
⑦  天孫族には産屋の習慣がありました。川ひとつ挟んだ隣の丘に産屋をこしらえて、そこでお産をし、一ヶ月はそこですごす。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために産屋に火を放ってお産をしたそうです。また、玉依姫は産屋を作るのが間に合わなかったため、その子の名前はウガヤフキアエズという名前になりました。このように、天孫降臨の地は産屋の仕来たりのあるところでなくてはならないのですが、日本海沿岸にはつい最近までこの仕来たりが残っていたそうです。九州沿岸にはこの仕来たりはないそうです。
⑧ やすみししわご大君の食国(おすくに)は倭(伯耆国を含む出雲)も此処(九州)も同じとぞ思ふ -大伴 旅人
⑨ 父母を 見れば貴し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(うけぐつ)を 脱き棄(つ)るごとく 踏み脱(ぬ)きて 行(ゆ)くちふ人は 石木(いはき)より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へ行かば 汝(な)がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月(ひつき)の下は 天雲(あまくも)の 向伏(むかぶ)す極(きは)み 蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極(きは)み 聞こし食(を)す 国のまほらぞ かにかくに 欲(ほ)しきまにまに しかにはあらじか 山上 憶良
父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、黐(モチ)にかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前(大伴旅人)をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。

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